毒薬注意(仮)

毒にも薬にもなれない

かつて感受性が豊かだった彼は

 ゴミ屋敷のような部屋に住んでいる彼はスマホの明かりしか見ていないから、腐った臭いのするゴミ袋や、取り出すのを忘れて蠅がたかる炊飯器に気を留めなかった。高木はその環境を改善しようとは思わないし、ゴキブリと共存することに嫌悪感すらわかない。もしも彼がアレルギー疾患を患っていたならばおそらく神経質になっていただろうが彼は不幸にも健康体でいた。

 高木の仕事はコンビニの深夜バイトで、人と話すのはその時だけである。彼は何についても面倒くさがった。進学も就職も恋人も友人も何もかも。

 三十代後半でコンビニバイトだなんて終わってると自覚はしても行動は起こさないし、週に一度ほど「変わろう」と求人サイトを覗いてみても何もせず「面倒くさい」とソシャゲに逃避するだけだ。

「そういえば高木さんって昔、漫画家だったんでしょ?」

 同じ夜勤の大学生の女が一時間ぶりに口を開いた。女っ気のない顔とろくに手入れをされていない髪の毛や手足でその女をどんな人種なのか把握していた。雑談なんか週に二回ほどしかしないのに、どういう風の吹き回しなのか、と高木は少し疑問に思った。

「昔の話だよ。売れてないし」

「すごいじゃないですか。新人賞は通ったんでしょ」

 新人賞なんて、と口に出そうとして閉ざした。

「君も描く人なの?」

 女は体をくねらせて目をそらした「イベントで出すくらいですけど」ああ、コミケか、と納得した。そうだよな、今は気軽に出せるもんな。

「趣味でやるくらいが一番いいよ。好きなことが描けるし」

「うーん。目指すならやっぱプロになりたいじゃないですか」

 女の目は黒く輝いていた。昔の俺のようだな、と高木は同情した。新人漫画家や漫画家志望をたくさん見てきて、みんな口をそろえて同じことを言っていた「やっぱプロじゃなきゃ」しかしプロになったからと言えど売り上げが伸びずに干されたり、新人賞にすらひっかからずアシスタントにしかなれなれずにいる落ちこぼれが大半だ。 みな努力はしていた、ただ才能がなかっただけだ。高木も同じだった。

 深夜一時のコンビニは静けさで気が狂いそうだ、と三日に一度は考える。ここしか世界が存在していないみたいだ、とありきたりな言葉を心の中でつぶやいた。商品を棚に置きながら、自分の過去に思いを馳せた。そういえば俺、こんなじゃなかったな、もっと純粋だったのに。蛍光灯の光はぎらぎらと輝いていた、もう昼には戻れないのだろうなと薄々感づいていた。

「高木さんは、布団を干したりしますか」

 床に胡坐をかいた女は、高木に背を向けたまま明るい声色で問いかけた。

「二年前に干したきりだ。ずぼらだから」

「身体がおかしくなっちゃいそうですね」

 女はくすくすと肩を揺らす。

「お前だって母親にやってもらってるんだろ」

「うちお母さんいません」

 あ、と声を漏らして高木は謝った。彼は漫画家をやりながら家にもお金を入れずに遊び呆けることができた身分である。高木の周囲には母親がいない知人が一人もいなかった。

「お母さんじゃありませんけど、おばちゃんが干してくれるんです。日光に当てたあとの布団っていい匂いがして、すごくすきで」

「日光に当てたあとの匂いかあ……」

「二年ぶりに干したらいいじゃないですか。きっと気持ちいいですよ」

 

 コンビニの夜勤はいつでも退屈でたまらなかった。人と話すことだって、永遠に続きそうなほど何もすることがない空間だって、時々やってくる常連気取りの老人も、何もかも。というより、彼はここ何年も感情が大きく動くことがなかったのかもしれない。

 ぼんやりと黒カビの生えた布団を高木は眺めて、汚いなと一言吐いた。こんな布団を干したところでいい匂いがするわけないだろ、と女に言ってやりたいと思った。朝のベランダは騒がしく、黄色い声が夜勤明けの耳を刺す。高木はやけくそに「ああ、やってやるよ」と重い腰を持ち上げ、カビ臭い布団をベランダに干して俯瞰した。

 「何も変わるわけないだろ」閉じそうな目をこすりながら、高木は薄暗いゴミだらけの部屋に同化していった。